DSC_5802

作家性の放棄

Posted on 2013/03/18

芸術の「作家性」や「視点」の問題は、批評家に丸投げして良いものだと思います。写真に限らず、芸術家が大きな物語(Big Story)としての、唯一無二の「作家性」や「視点」を達成しようとしても、今や、その試みはことごとく破綻してしまうからです。(特に写真業では、その破綻が早めにやってきます)。2011年3月の震災では、無数の写真家が東北へ旅立ちましたが、はたして何人の写真家に「ワタシにしか撮れない写真」を撮ってきた自覚があるでしょうか。たとえばflickrには毎日数千枚の「アジアの路上」のスナップショットが上がってきますが、それらのアップロードから「独自の視点」を探す努力は、はたして報われるでしょうか。

1枚の写真の作り方を決める要素は、被写体と光線の選択に加え、それらをフィルム/センサーに記録するためのアングル・画角・露出・画像処理がその大部分を占めています。それだけの要素があれば充分に「作家性」が発揮できるという考え方もあるでしょうが、私はむしろ「それだけしかない」と思います。そして、それらの要素をコントロールすることによって自分だけの「作家性」を作れるかと考えると、私は、できないと考えています。

写真に「作家性」を込められない理由は、「写真は科学と芸術の召使いであって、芸術ではない」という、ボードレール以来形を変えて繰り返されている主張にはありません。そうではなくて、私たちが世界を見る見方には、自分だけのオリジナルなものはないという点にあります。これは芸術家の問題ではなくて、「個性」一般の問題です。わたしとあなたの世界の見方は違うけれども、わたしの見方と同じような見方をする人間が、地球上にはいくらでもいるということがPCやタブレットの端末上で(ブログやSNSを通じて)容易にわかるようになりました。

写真について言うと、わたしが「このような光を浴びた、この被写体を、このアングル・画角・露出と後処理で写真に仕上げるフォトグラファーは、自分くらいしかいないだろう」という考えを持っていると、その傲慢さはウェブ上で容易に打ち砕かれます。ウェブには、「ワタシにしか撮れない写真」に酷似した写真がすぐに見つかってしまうわけです。だから写真家の労働は、1)まだ写されていないものを探して写すこと、2)写真と、関連するメディア(言語や音響など)を用いてコミュニケーションを図ること、の2点が重要で、言うまでもなく1)は写真の報道的価値を追い、2)はフィクションも含む写真の芸能的な価値を追うことです。flickrだけで60億枚(2011年8月)の画像がオンライン上にあるいま、オリジナルな世界の創造者になろうとする試みはもはや報われないでしょう。

ただし、このような「作家性」や「視点」にたいする諦めたような考え方は、大きな物語(Big Story)としての「作家性」や「視点」に向けられるべきであって、写真家個人の仕事は永遠になくなることはありません。写真業に即して具体的に言うと、写真家個人には独自の視点があるべきだという「個性」への信仰や、決定的瞬間を切り取る職人性や、戦場で生命を賭して撮影するヒロイズム、精神性が写真に現れるという神秘主義などのBig Storyで写真を語る限界から写真行為を前進させることが、当面の仕事として眼前にあります。
それが、個人の写真家にとってどのような仕事になるのか、私にはまだ分かりません。

Be the first to leave a comment

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>